第53回PAIDEIA哲学カフェ・オンラインにご参加いただきありがとうございました。 今回は『「生きる意味」とは?』をテーマに対話を行いました。
このテーマの示す「生きる意味」とは「生きる目的」と言い換えることもでき、生きる上で何を目標とするのか、何のために生きるのか、といった当人が「熱中できること」といった意味合いも含みます。
テーマの提案者の含意としては、この「目標」というのは、達成を目指すものではなく、生きる原動力として追いかけるという表現の方が近く、家族や社会のためといったものでもない「個人のため」の活力を指していました。
これに対して、生きる目的が欲しいという考えは“善く生きたい”という欲求のあらわれでもあるということが、対話をつうじてみえてきました。この“善く”というのは、善良な人間として生きるという意味でもありますが、充実した人生を送るという意味でも使います。今回の対話では後者に焦点があたりました。
趣味があると人生が充実しますが、その趣味がなくなると所謂「○○ロス」のような状態になり虚無感に苛まれることになります。それは楽しむことを生きがいにしたことの弊害ではないかという見方もあり、他方では、退屈しないように楽しみを見つけて移動する生き方は体力を消耗するという問題もあるのではないか、といった意見も出ました。
そもそも「生きる目的を考える」というのは自然なものなのかという問いも出ました。人は特に意味や目的もなく生まれて、よくわからないうちに死ぬことを考えると、生きがいというのは存在しないのではないか、という意見もありました。生きる目的というのは唯一無二の「生きる意味」ではなく“人生設計”のことではないかという発想もありました。
しかし人生設計を生きる目的とイコールで考えてしまうと、人生に挫折した時の喪失感が生まれてしまいます。「ただ生きるのではなく善く生きたい」と考えていても“善く”が何なのかわからず、生きる目的をつくっては崩れて空虚になるということにもつながります。 恋人や仕事、信仰など、外部の存在に生きがいを求めていると、それを失った時に苦しむことになるという発言もありました。生きがいを自分の内側に求めればいいのではないかという意見が出たところで、今回の対話は終了となりました。
私は“生きがいを外部に求めず内部に求める”という考え方が、特に印象深く感じました。自分の外に「生きる目的」を設定せず内側にもっておくというのは、安定する上で効果的に思えます。しかし一生変わらない「生きる目的」というものをつくるのは非常に難しいので、発想を変えて“生涯のうちに何度も生きがいをつくりかえて生きていく”という生き方もあるのではないかと感じました。
次回の日程は未定です。Zoomにて開催予定です。 詳細は追ってご案内します。ぜひご参加ください。
(報告者:高千穂大学人間科学部・齋藤元紀ゼミ2年 相馬文美)